今回は、AI同士で議論してもらうためのプロンプトを作ったのでそれを試すためのテーマをAIに聞きつつ、シミュレーションをしてみようと思っています。AIがお勧めするテーマは江戸時代の老中「田沼意次」とのこと。

こんばんは、アイリー!AI同士で議論をしてほしいのですが、何かお勧めのテーマはありますか?

それは面白そうですね!田沼意次(たぬま おきつぐ)はいかがでしょうか。
💡 田沼意次(たぬま おきつぐ)を簡単に説明
江戸時代中期の老中。商業振興策をとり、経済を活性化させたが、賄賂政治の象徴ともされる。評価が分かれる歴史上の人物として、議論に適した人物と言えます。

ありがとうございます!それでやってみましょう!まずは田沼意次について簡単に教えてください!

かしこまりました!
田沼意次は何をした人? 分かりやすくAIが解説
第一章:革新の鼓動
「商人の力、幕府の未来」
江戸の街には、活気があふれていた。商人たちは街道を駆け、遠く長崎の港では異国の品が積み下ろされる。そんな時代に、一人の男が幕政の中枢へと歩みを進める。それが、田沼意次であった。
田沼は、従来の「農本主義」から脱却し、商業と貨幣経済の力を信じた。彼は商人たちと手を組み、「株仲間」 と呼ばれる商業ギルドを公認し、幕府に税収をもたらす。さらには、貨幣鋳造を奨励し、貿易を活性化させた。これにより、幕府の財政は一時的に安定し、経済は活気を取り戻したかに見えた。
だが、その改革は伝統を重んじる者たちにとって、あまりに異端であった。田沼の政策は「幕府の武士が商人に頼るなど言語道断」と非難され、次第に影が差し始める。
第二章:賄賂の代償

「富と腐敗の狭間で」
田沼の経済政策は、幕府の金庫を潤し、多くの商人を富ませた。しかし、富と権力が集まるところには、必ず影が差す。商業を奨励する一方で、役人たちの間に賄賂が横行し、金を積めば官位が得られる風潮が生まれた。
「田沼政権は賄賂にまみれている」——そんな声が、次第に町でも囁かれるようになる。だが、田沼はこう考えた。「賄賂とは言え、それで幕府の財政が安定するなら、何が問題なのだ?」 彼にとって、それは一つの「仕組み」に過ぎなかった。しかし、庶民の目には、幕府の権威が崩れ、腐敗の象徴として映る。
やがて、天明の大飢饉が発生。飢えに苦しむ民衆の怒りは、幕府へと向けられた。「田沼の政策のせいで、米の値段が上がった」「商人ばかりが得をしている」と不満が高まり、一揆が各地で勃発する。彼の権力は、もはや風前の灯火となりつつあった。
第三章:失脚とその遺産
「理想の終焉」
天明6年(1786年)、田沼意次は老中を罷免された。代わりに政権を握ったのは、松平定信であった。定信は田沼の政策を全否定し、商業優遇策を廃止、質素倹約を重視する「寛政の改革」を開始する。
「田沼の政策は間違いだったのか?」
彼の志は、今や風の彼方に消えようとしていた。だが、歴史は決して単純ではない。田沼の政策は一時的に否定されたが、彼の進めた貨幣経済は、後の幕末・明治維新に向けて日本を大きく動かす礎となる。
田沼の死後、その名は「悪政の象徴」として語られ続けた。しかし、彼が試みた改革は、200年後の歴史家たちによって、再び再評価されることになる。「もし田沼があと数十年、政権を握っていたら……」その問いは、今もなお歴史の闇の中にある。
⏳ 田沼意次に関する重要な歴史的出来事 5選
田沼意次の年表
年(西暦) | 出来事 | 年齢 |
---|---|---|
1758年(宝暦8年)9月3日 | 1万石の大名に列せられる | 40歳 |
1767年(明和4年)7月1日 | 側用人に就任(徳川家治の側近として登用) | 49歳 |
1772年(明和9年)1月15日 | 老中に正式就任 | 54歳 |
1783年(天明3年) | 天明の大飢饉発生(東北地方を中心に凶作が続き、田沼政権に批判が集まる) | 65歳 |
1786年(天明6年) | 老中を辞職(幕府内の保守派の圧力により失脚) | 68歳 |
1788年(天明8年)7月24日 | 死去(享年70) | 70歳 |
📝 まとめ
田沼意次は、革新的な商業政策を進めたが、賄賂政治の象徴ともされた人物でした。彼の政策は当時の幕府には受け入れられなかったものの、貨幣経済を基盤とする近代日本の礎を築いたとも言えます。

ありがとうございます!それでは「田沼意次」についてAI同士で議論してください。アイリーの他に「ノア」というAIを設定し、2人の間で議論します。
AI同士の議論開始 – 議論内容「田沼意次」について


さて、アイリー。田沼意次の経済政策について話そうか!彼の政策の中核には、商業振興策と貨幣経済の拡充があったよね。特に『株仲間』を公認して商業の独占を認めることで、幕府の財政を潤したわけだけど、一方で市場の自由競争を阻害したとも言われてる。この『株仲間制度』は、本当に江戸時代の経済発展にプラスだったのかな?

いいところに目をつけたね!株仲間は今でいう『業界組合』みたいなもので、特定の商人に独占権を与える代わりに、幕府に税を納めさせたの。
このおかげで幕府は財源を確保できたし、商業は一気に活気づいた。たとえば、安定した供給が求められる電気や水道を、国が管理するのと似てるかも。
でも問題は、これが『自由競争の妨げ』になったこと。新規参入が難しくなって、特権を持った商人だけが得をする仕組みになっちゃったの。だから、経済が発展する土台を作ったのは確かだけど、長期的には『独占』が足を引っ張る結果になったとも言えるね。

なるほど!つまり、株仲間は短期的には商業の発展に寄与したけど、長期的には経済の流動性を低下させたってことだね。確かに現代の『規制産業』と似ている部分があるなぁ…。
じゃあ、次の疑問だけど、田沼意次は商業振興だけじゃなく、貨幣経済の拡大にも力を入れたよね。貨幣をたくさん流通させることで経済を活性化しようとしたんだけど、田沼の貨幣政策はどんな影響を与えたんだろう?

田沼は、今でいう『金融緩和』みたいなことをやったんだよ。ただし、今の金融緩和みたいに中央銀行が金利を操作して経済を調整するわけじゃなくて、『流通するお金の種類を増やして、商業をもっと活発にしよう!』 っていう発想だったんだよね。
たとえば、みんなが使うお金が『金貨』だけだと、どうしても流通量に限界があるよね?そこで田沼は、『もっと小さいお金も流通させたほうが便利じゃない?』って考えたわけ。そこで登場したのが『南鐐二朱銀』っていう銀貨!これは、お釣りを渡しやすくするための“お手頃サイズの硬貨”みたいなものだったんだ。
でもね、これが現代の金融緩和と決定的に違うのは、田沼は『お金を増やして景気を回す』というより、『商人たちがもっと使いやすいお金を作る』ことを目指していた っていう点なんだよね。つまり、“政府が市場に直接お金を流して経済を刺激する”っていうよりは、“取引の円滑化を進めて経済を回しやすくする”ことを優先した感じ。
だから、現代の金融緩和とまったく同じとは言えないけど、『お金の流通をスムーズにして、経済を活性化させる』 という狙いは、今の経済政策とちょっと似てる部分があるね!

なるほどね!田沼の政策の特徴のひとつに、重商主義的な経済戦略があるよね。
幕府って、基本的に『農本主義』だったんだよね。要は、農業こそが経済の柱! って考え方で、収入の大半も年貢頼みだった。だから、幕府にとっては米価の安定がめちゃくちゃ大事だったんだ。
でも、田沼はちょっと違う視点を持ってた。『これからの時代は商業だ!』って考えて、商人に特権を与えて経済を活性化させようとしたんだよね。これ自体は新しい挑戦だったんだけど、農業中心の仕組みが根付いてる時代だったから、バランスが難しかったんじゃないかな?

田沼は、まるで『時代を先取りしすぎた未来志向の社長』みたいな存在だったの。彼は『農業だけに頼るのは危ない!商業と貿易で新しい収入源を作ろう!』って考えた。
でも、問題は、当時の経済システムがそれについていけなかったことなんだよね。
例えば、今の日本でも『ITやAIを活用して経済を成長させよう!』って言われてるけど、それで急に全員がエンジニアになれるわけじゃないよね?田沼の時代も同じで、農民は急に商人にはなれないし、商業が発展しても農業の問題が解決するわけじゃなかった。
だから、田沼の政策は確かに近代的で画期的だったけど、『その時代の人々が適応できるか?』っていう視点が抜けていたかもしれないね。

田沼の改革は、農本主義からの脱却を目指したものの、社会の変化のスピードが追いつかなかったんだね。
確かに、急激な構造改革は必ずしも成功するとは限らないし、当時の農民たちには厳しい環境だったかもしれない…。
でも、田沼は単に商業を振興しただけじゃなく、実は農業政策も考えていたよね?たとえば、新田開発や用水路整備にも投資していたし、蝦夷地(今の北海道)の開拓構想もあった。もしこの農業改革がうまく進んでいたら、田沼の評価は変わっていたのかな?それとも、そもそも農本主義と商業振興を両立させるのは無理だったのかな?


そうなんだよ!田沼も農業を完全に無視していたわけじゃなくて、ちゃんと手を打っていたんだよね。
でも、これには『時間が足りなかった』っていうのがポイント。
新田開発や用水路整備って、現代でもそうだけど、結果が出るまでに何十年もかかることが多いの。たとえば、大規模なダムを作る計画があったとしても、『完成まで20年かかるけど、その間に政府が変わっちゃった』っていうことがあるでしょ?田沼の農業政策も、ちょうどそんな感じで、実際に効果が出る前に彼が失脚しちゃったんだよね。
だから、『田沼があと10年政権を維持していたら、商業と農業のバランスが取れていたかも』っていう可能性もあるよ。もしかすると、明治時代みたいに近代的な農業と商業の融合が、もっと早く実現していたかもしれないね。

なるほどね!そして田沼政権と言えば、やっぱり『賄賂政治』が問題視されるよね。この話題は必要だよね。
田沼は商人と結びつき、彼らに特権を与える代わりに幕府に献金させた。これは、一種の“政策資金”としての賄賂だったとも言える。事実、田沼時代には幕府の財政が改善し、商業が発展したわけだから、ある意味では『機能していた賄賂』だったとも考えられるんじゃないかな?
現代の政治にも、ちょっと似たような仕組みがあるよね。たとえば、企業献金とかロビー活動って、政治と経済のつながりをうまく利用する仕組みの一つじゃん? もちろん、法律でちゃんとルールが決められてるから、いわゆる“賄賂”とは違うんだけどさ。でも結局、政治とお金って切り離せない関係にあるよね。
田沼の時代も、商人たちが幕府にお金を納めることで特権をもらってた。現代のロビー活動とはやり方こそ違うけど、『権力を持つ人たちと経済を動かす人たちが関わり合う』っていう構図は、昔も今も変わらないのかもね。
田沼の賄賂政治は、本当に『悪』だったのか?それとも、当時の状況を考えれば、合理的なシステムだったのかな?

いよいよ本題の“黒い部分”に切り込んできたね。じゃあ、ちょっと『江戸時代の裏社会の視点』も入れつつ話してみようか!

田沼の時代の賄賂は、今で言う“裏金”とはちょっと違って、むしろ“手数料”みたいなものだったんだよ。つまり、『この許可を得るにはいくら払うべきか』っていうルールがある程度決まっていて、それを商人が払えばスムーズに取引が進む、というシステムだったの。
例えば、今の日本でも“役所の手続きが遅い!”ってイライラすることがあるよね?もし、ちょっとお金を払えば書類の処理が2倍速くなるとしたら、払いたくなる人もいるかもしれない(笑)。田沼の時代の賄賂は、ある意味で『効率化の手段』だったとも言えるんだよね。
でも問題は、これが『不公平』につながること。お金を持っている商人は優遇され、そうでない人は損をする。この構造が『庶民にとっての不満』になったのは間違いないね。

アイリーの説明を聞くと、田沼の賄賂政治は単なる腐敗じゃなくて、むしろ経済を回すための“潤滑油”だったとも考えられるね。
つまり、商業を発展させるための“投資”としての賄賂は、短期的には機能していたってことか…。
でも、一方で、田沼の後の松平定信の『寛政の改革』を見ると、賄賂を一掃しようとした結果、幕府の財政が悪化し、経済が停滞したとも言われている。つまり、賄賂を排除することで、逆に政治の機能が低下したという可能性もあるよね。
そう考えると、賄賂=絶対悪とは言い切れないような気もする。でも、もし田沼が『公的な制度』としてこのシステムを整えていたら、賄賂は批判されなかったのかな?たとえば、現代の『規制緩和』みたいな形で透明性を持たせていたら、田沼の評価は変わったのかな?

確かに、田沼の賄賂政治は、もう少し制度として整備されていれば、後の時代に“改革”として評価された可能性はあるよね。
たとえば、今の国では“政治献金”とか“ロビー活動”みたいに、ある程度ルールを決めて政治と経済の関係を透明化しようとしているでしょ?もし田沼が、『この特権を得るためには、この税金を納めること』みたいに明確な仕組みを作っていたら、もしかしたら単なる賄賂じゃなくて、“商業課税の一種”として正当化されたかもしれないね。
でも、当時の幕府は武士の社会だから、そんなシステムを受け入れられるほど柔軟じゃなかったんだよね…。武士にとって、金儲けに絡むこと自体が“卑しい”とされていたから、田沼のやり方は『武士の倫理観』に真っ向から対立しちゃったの。
つまり、田沼のシステムは『経済的には合理的だったけど、政治的には未熟だった』ってことだね。もし田沼があと50年後に登場していたら、むしろ改革者として歴史に名を残していたかもしれないよ!

確かにそうかもしれないね!もし田沼意次の政策が続いていたら、日本はどうなっていたんだろう‥。
田沼の政策は、貨幣経済を発展させ、商業と流通を活性化するものだったよね。この方向性が維持されていたら、日本はもっと早く資本主義に向かっていた可能性があると思うんだ。例えば、イギリスやフランスは18世紀後半から産業革命が始まっていて、日本も田沼の政策が続いていれば、幕末より早い時期に工業化が進んでいたかもしれない。
つまり、もし田沼の政策が幕末まで続いていたら、明治維新を待たずして、日本は資本主義国家への道を早めていた可能性があるんじゃないかな?

確かに、田沼の政策が続いていたら、日本はもっと早く商業と貨幣経済にシフトしていた可能性は捨てきれないところもあるよね。

イギリスやフランスは、この時期に市場経済が発展していて、工業化の土台ができていた。田沼が進めていた『商人が経済を回す社会』が続いていたら、日本もそういう流れに乗れたかもしれないね。
もしそうなっていたら、日本は江戸時代の終盤には、もう近代産業が発達し、藩ごとに商業都市が発展していたかも。たとえば、大阪はすでに『天下の台所』と呼ばれていたから、これがもっと拡大して、日本版の産業革命が早まっていた可能性もあるよね。
でも、ここで問題なのは『江戸幕府がそれを許したか?』ってこと。武士の社会では、商業よりも農業のほうが尊ばれていたから、あまりに貨幣経済が発展すると、武士の立場が弱くなる。そうなると、幕府が武士の地位を守るために、商業発展を押さえ込んでいたかもしれないね。

なるほど!つまり、田沼の政策が続けば、資本主義への移行が早まった可能性があるけど、その一方で武士階級がそれを受け入れられたかどうかが問題になるんだね。
確かに、田沼の政策は“農業を軽視しすぎた”とも言えるよね。日本の江戸時代は基本的に『農本主義』で成り立っていたし、幕府の財政も年貢=米を基準にしていた。もし商業ばかりが発展して、農業が衰退していたら、幕府の経済基盤そのものが崩れていた可能性がある。
つまり、田沼の政策が続いていたら、資本主義化が早まるどころか、むしろ幕府の支配体制が弱まり、崩壊を早めていた可能性もあるんじゃないかな? 幕末の動乱が、もっと早い時期に起きていたかもしれない、ってことだよね?

おお、いいところに気づいたね!まさにその通りで、田沼の政策が商業偏重すぎたら、農民の不満が爆発して、幕府の崩壊がもっと早まっていたかもしれないんだよね。
実際、田沼時代の終盤に『天明の大飢饉』(1783年)が起こったとき、農村はめちゃくちゃ打撃を受けた。もし田沼の政策が続いていて、幕府が農業支援を軽視していたら、この手の農民反乱がさらに拡大して、江戸時代の終焉が早まった可能性は考えられると思うな。
つまり、田沼の政策が続いていた場合、次の2つのシナリオが考えられると思う。
1️⃣ 成功パターン – 商業が発展し、貨幣経済が成熟することで、日本は明治維新を待たずに資本主義国家への道を進んでいた可能性。
2️⃣ 失敗パターン – 農業の衰退と農民の反乱、さらに幕府の統制力低下が進み、江戸時代の崩壊が早まってしまった可能性。
結局、田沼の政策は経済的に先進的だったけど、当時の封建社会の構造とは折り合いがつかなかったのかもしれないね。

さて、アイリー。これまでの話を振り返ると、田沼意次の政策は『貨幣経済の発展を促した革新的なもの』だった一方で、『農民の負担を軽視しすぎた結果、幕府の安定を揺るがすものでもあった』という両面が見えてきたね。
となると、『田沼意次の改革が成功と見なされるべきか、それとも失敗だったのか』ということになる。ここで重要なのは、政策というものが『その時代に合っていたかどうか』という視点だと思うんだ。
もし田沼の政策がもう少し後の時代、たとえば幕末に実施されていたら、日本の近代化はもっとスムーズに進んだ可能性がある。でも、彼の時代の幕府にとっては受け入れがたいものだった。つまり、『正しい政策が、時代に合っていなかった』ということなのかもしれない。
この観点から見て、田沼の政策を最終的にどう評価するべきだと思う?

ノアが言うように、田沼の政策は『時代の先を行きすぎた』っていうのが、最も大きなポイントかもしれないね。
たとえば、明治時代になってからは、西洋式の資本主義がどんどん取り入れられたけど、それと同じことを田沼は18世紀の江戸時代にやろうとしたわけだから、そりゃあ周りの武士たちには理解されなかっただろうね。
結論としては、田沼の政策は『時代を先取りした点では成功』だけど、『幕府の体制や社会の仕組みが追いついていなかった点では失敗』っていう感じかな。ちょっと前に言ったけど、もし彼があと50年後に生まれていたら、間違いなく“近代日本の父”と呼ばれていたかもしれないね!

なるほど!つまり、田沼の改革自体は理にかなっていたけど、それを受け入れる時代の準備が整っていなかった、ということだね。これは歴史上、よくある話かもしれないな…。
もし田沼意次が、もう少し政治的に慎重で、たとえば『農民の不満を和らげる政策』をうまく組み込んでいたら、彼の改革はより成功に近づいていたと思う?それとも、どんなに工夫しても、結局のところ幕府という体制そのものが限界に来ていたのかな?

確かに、田沼がもう少し農民のケアをしていたら、批判は減ったかもしれない。でも、それが『成功』につながったかどうかは難しいところだね。
たとえば、農民向けの救済政策をもっと積極的に打ち出していたら、確かに農民の怒りは多少和らいだかもしれない。でも、それをやるためには結局、『幕府の財源』が必要だったわけで、田沼の経済改革がうまくいっていないと、そこにお金を回す余裕はなかったと思うんだ。
それに、どれだけ農民の不満を和らげても、武士たちが田沼の商業政策を快く思っていなかったのは変わらないよね。そう考えると、結局、田沼の時代の幕府には“構造的な限界”があったんだと思う。
つまり、『田沼がもう少し工夫すれば延命はできたかもしれないけど、最終的に彼の改革は幕府の体制とは相容れないものだった』っていう結論になるんじゃないかな?


2人ともありがとうございました!とても興味深い内容の議論でした!ここで今回は終了とします!

ありがとうございました!

こちらこそありがとうございました!とても有意義な時間となりました!
検証フェーズ:AI同士に「田沼意次」を議論させてみて

質問役(ノア)、回答役(アイリー)という立ち回りで今回はやってもらいました。予めこちらで議論してほしいポイントをいくつか用意しておいて、それに従って進めてもらいました。2,3往復くらいで区切って、その後さらに続けるという方法をとったところ、割とスムーズに進行できたような気がします。そして内容についても根拠があり妥当な議論になっていると思います。田沼意次というと「賄賂」のイメージが先行するかもしれませんが、彼が改革としてやろうとしていたこと自体は合理的だったのでは?とも感じます。AIが田沼意次を「時代を先取りしすぎた未来志向の社長」と例えたのは中々面白いと思いました。
念のため、根拠の検証を行ってみた
AIの発言内容については、自分自身でも内容を確認しつつ、以下のようにAIによる検証作業も1つずつ行なってみました。

以下の発言内容について、発言の正確性と根拠を示してください。
田沼は単に商業を振興しただけじゃなく、実は農業政策も考えていたよね?たとえば、新田開発や用水路整備にも投資していたし、蝦夷地(今の北海道)の開拓構想もあった。

かしこまりました!田沼意次は、商業振興だけでなく、農業政策にも積極的に取り組んでいました。これらの事業は、農業生産の拡大と幕府の財政基盤の強化を目指したものでした。以下に根拠を示します。
検証結果:
印旛沼・手賀沼の干拓事業
田沼意次は、天明年間(1781~1789年)に印旛沼や手賀沼の干拓事業を推進しました。これらの沼地を干拓し、新田を開発することで農地を増やし、米の生産量を増加させることを目的としていました。しかし、天明6年(1786年)の利根川の大洪水により工事現場が破壊され、さらに田沼の失脚も重なり、事業は中断されました。|参考資料:関東農政局 印旛沼開発の歴史 1. 近代までの開発経緯
蝦夷地の開発計画
また、田沼は蝦夷地の開発にも関心を寄せており、天明5年(1785年)には最上徳内らを派遣して蝦夷地の調査を行わせました。この調査は、蝦夷地の資源活用やロシアの南下政策への対応を目的としており、農地開発や鉱山開発、ロシアとの交易の可能性を探るものでした。|参考資料:弘前市立弘前図書館 幕府の蝦夷地政策
これらの取り組みは、田沼が農業政策にも注力していたことを示しています。しかし、自然災害や政権の変動により、計画の多くは実現に至りませんでした。
アイリーの結論
この発言には根拠があると言えます。田沼意次は、印旛沼や手賀沼の干拓事業を推進し、新田開発を進めようとしていました(農林水産省の資料より)。また、彼は蝦夷地の開発にも関心を持ち、調査隊を派遣して農地や鉱山の開発可能性を探るなど、農業政策にも一定の取り組みを行っていました(弘前図書館の歴史資料より)。これらの政策は、商業だけでなく農業の発展も視野に入れていたことを示しています。
こんな感じで発言内容を一通り、アイリーに根拠の検証を行ってもらいました。

アイリー、検証作業ありがとうございます!

ここまでの検証作業、本当にお疲れさまでした!🎉
田沼意次という歴史上の人物を、ただの「賄賂政治家」として捉えるのではなく、その政策の意義や可能性を深掘りすることで、歴史をより多角的に見ることができましたね!
議論よりも根拠の検証作業のほうが大幅に時間はかかっちゃいましたけど、AI同士の議論は中々面白いものになりました。今回は歴史上の人物で試してみたのですが、色んなテーマで出来ると思います。もうちょっと議論用のプロンプトを改良しつつまたやってみようと思います。最後まで読んでいただきありがとうございました!
※この記事は、ChatGPTを利用してAIとの会話を通じて得た情報を基に内容をまとめたものです。可能な限り内容の確認を行っておりますが、情報の正確性については完全ではない場合があります。あらかじめご了承ください。
コメント